恵方巻はいつから流行ったのか。デマを明かして起源と真相を追う。

恵方に向いて切っていない巻き寿司を一本丸かじりで食べる節分文化。

とある朝の情報番組で「噂」レベルの話を放送し、下品な文化であると言われるようになりましたがその起源は真実なのでしょうか。

色々な憶測が飛び交う恵方巻をより深く調べてみました。

興味のある方は是非、続きを読んでくださいね。

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恵方巻、全国区デビューのきっかけ

恵方巻とはそもそも、大阪で節分行事の際に行われていた風習です。

大阪での風習ですので、もちろんきっかけが無ければ全国に行き渡るようなものではありません。そのきっかけとは、

【1998年セブンイレブンが「まるかぶり寿司 恵方巻」として商品名を設定】

したことがきっかけで全国各地へ「恵方巻」が拡散されました。実際の流行は2000年頃からなのでこれを起源とすると文化としては日が浅いですね。

恵方巻の発祥、起源はセブンイレブンの販促戦略だと話されている方も多いですがあくまでそれは全国的に広がった「きっかけ」ですのでお間違いないように。

恵方巻の発祥、起源は特定が難しい

煙管を持った花魁

昭和初期花街の遊び説

先に結論から申し上げます。この説はデマです。

そしてここの見出し部分は少しお下品な情報となりますので不愉快に感じられる方は飛ばしてお進みください。

事の始まりは2010年ツイッターでのつぶやきなのですが、そのツイートが朝の情報番組でピックアップされ大流行してしまいました。その内容とは

大阪船場の花街で行われていた「遊女に対する男衆の遊び」と言われているという事。

「恵方巻きを遊女に一本丸かぶりさせて、その姿を男が見て楽しんだ。」

と・・・直接的な表現は規約上避けたいので書きませんが、大人の方ならどういう意味かおわかりいただけるかと思います。このツイートさらっとなんか本当っぽい空気感を出したことは見事です。「赤丸稲荷の古文書にもそのような事が書いてある」と注釈も入れて。(笑)

しかしその後、本人が同じアカウントで

「思いつきで言っただけのデマで拡散したらおもしろいな」

的な事をつぶやいています。更に1年後は自分の想像を超えた域の拡散がなされ反省のツイートを流しており若干萎縮し始めています。

人間とは悲しいもので人の善行より悪行に興味を示す生き物です。

この説はデマと言えどあまりにも衝撃的で、急速に全国に広まりました。そして急速に拡散された「噂」は人間の悲しい性質上、人づてに伝わる過程で「真実」だと思い込まれ始めます。これが【花街遊び説】の真相です。

朝の情報番組の制作サイドも、そんな人間心理を利用したのでしょうが事実を捻じ曲げ、文化が悪い方向に向かう様な情報発信は、信憑性など裏取りをしっかり行ってからやるべきではないでしょうか。

あまりに無責任だと感じます。

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その他にも諸説様々

江戸時代末期の商人起源説

江戸時代末、大阪商人たちが商売繁盛と厄払いの意味を込めて、立春の前日の節分に「幸運巻寿司」を食べる習慣が始まったとする説です。切らずに食べるのは、「切る」という行為を「縁が切れる」ということにかけた為。

年越しそばの起源。細く、長く続く物。

戦大勝利説

豊臣秀吉の家臣が、節分前日に海苔巻の様なものを食べて戦に出陣した際、とても大きな功績を残し大勝利を収めたことから、海苔巻は縁起がいいものという考えが広まったものとする説。

この説は一つ矛盾がありまして、板状の海苔は江戸時代に誕生した物で、室山~安土桃山時代の秀吉の頃には板海苔が存在しなかった為、根拠が最も乏しい説ですね。

切るの面倒くさかった説

1800年代の節分に、大阪の村で人々が集まり巻き寿司を食べる催しがあった際、村人みんなの海苔巻を切り分けるのが面倒だったのでそのまま出したという、物事の起源や由来にちょこちょこ出てくるワイルド作法が伝わっている説です。(笑)

最も信憑性の高い恵方巻の起源

局所的文化の根拠

場所は大阪。これは変わりません。しかし大阪と言っても場所が非常に局所的なものとなります。これはある意味「切るの面倒ワイルド説」に近いかもしれませんね。

で、その場所は大阪の「阿倍野区近辺」となります。この住吉近辺というものが下品な起源説に非常に密接に絡んできます。人の話って思いもよらぬ形で曲がって伝わるのはいつの時代も同じなのかなあと感じます(笑)

話を戻しますと、阿倍野区にお住まいの方が「節分に巻寿司なんてかなり昔から当たり前」といったような内容をお話しされている事がわかりました。

阿倍野区民のお話しから推察

節分に巻き寿司を食べる習慣は戦前から当たり前のように続いているという事です。

また、昭和40年代に発行された篠田統著『すしの本』では阿倍野の鮨屋で「巻きずしアリ」と店先に表示し(冷やし中華はじめました的な表記)著者は一体何を指示している物かわからなかったというエピソードがあります。

大阪府出身で大阪教育大学名誉教授で食物史を研究していた篠田統氏が知らないという事はかなり局所的な風習として伝わっていたと考えられます。

なぜ花街に?

ここで花街という全く違う場所との糸が出てきます。どうやって花街が起源となったのか・・・

先述したように戦前古くから局所的ではありますが、巻寿司は節分に一般家庭で食べられていました。鮨屋でも販売はするそうですが一般的ではなく(チラシを出す必要がある事から推察)阿倍野区の方からの話でも家庭で巻くのが一般的であるそうです。実際に時期が近くなると巻き寿司用材料が積極的に販売されているそうです。

そしてこの風習が当たり前に行われていた地域には「住吉大社」があります。厄除けでも権威のある非常に大きな神社ですね。実はその住吉大社には支援者がいました。

その支援者の内のひとりに船場花街の有力者がいたんです。御田植祭で船場花街の踊り手が参加する風習もある事からこれは事実であると考えられます。

つまり住吉周辺の局所的文化、風習、習慣が、船場花街に「局所的に」伝わった事に違和感はありません。その地域に幾たびも足を運ぶわけですから。

大規模PRの際に勘違いが生じた

そうして太巻き寿司の文化を知った船場遊女たちは太巻きを切らずにそのまま食べる事を覚えます。

「階段の中段で遊女が太巻きを食べていた。」といった話は阿倍野区近辺で知った太巻きをそのまま食べる習慣をただ実行していただけなのかもしれません。

そして文化の糸はここでプツリと切れてしまいました。

その食べ方に注目した海苔屋や鮨屋は「花街の遊女の食べ方」として情報をインプットしてしまい、それを元に販促戦略を組んでいったんです。

そうして遊女という職業の特性から、少々下品な恵方巻起源説が語られるようになりました。海苔屋さんも鮨屋さんも遊女に取材してから採用すればいいのに・・・少しの事実と多くの憶測だけで行動すると、真実はどんどん遠ざかってしまうという事ですね。

恵方巻き起源の総括

阿倍野区付近では戦前よりも古くから太巻きをそのまま食べる風習があった事、実際に住まれている方からもその言葉が出ている事、住吉大社と船場花街との繋がり、船場花街で恵方巻を食べていた証言が出た時期が昭和初期である事、この様な由来の糸を紡いでいくと、普通に考えれば「船場の花街だけ」という「阿倍野区近辺だけ」よりも更に更に局所的な物事が広く普及するとは考えにくいです。

時期を考慮した上で最も矛盾なく受け入れられる説としては阿倍野区近辺で昔から行われていた、節分時に太巻きをそのまま食べる行為を住吉大社と大きな繋がりのある船場花街関係者が知り、その風習を花街へ持ち帰った。

それを見た船場商人は花街遊女の食べ方として販促を促進し、いつしかそれは花街の遊女が起源、由来だと信じられるようになった。

という事です。人の話とは非常に曖昧な物で、更に人とは噂話を聞きこむことで「噂」という概念を忘れ「真実」と情報がすり替わってしまう生き物なんですね。伝言ゲームが楽しく成立するのはそういった情報の置換が起こる脳の仕組みがあるから楽しいのかもしれません。

そしてそういった情報の曖昧さがあるからこそ、情報を遡り納得のいく【起源】、【由来】を
見つける事がこんなにも楽しいのかもしれませんね。
恵方巻を食べる男の子

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