柊鰯の起源はとても古く別の魚だった。節分飾りに課せられた使命。

節分になると飾りとして使用される「鰯」。

魚へんに弱いと書いてイワシ・・・鰯にとっては「余計な御世話だ!」といった感じなのでしょうか。(笑)

しかしこの弱いと銘された鰯、節分で大人気のお魚へとなりますよね。最近ではあまり飾られないのかもしれませんが、「柊鰯(ひいらぎいわし)」という節分飾りがあります。

この一風変わった飾り、一体なぜ始まったのでしょうか。なぜ鰯なのでしょうか。

込められた意図を汲み取りにまいりましょう。

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独特の見た目、柊鰯

実際にお家に飾られる事はなくても「あ、なんか知ってる」と思う方も多いのではないでしょうか。起源と由来に迫る前に一度当記事の主役である柊鰯のいで立ちを見てみましょう。

かわいい柊鰯のイラスト

はい、ズタボロですね。

主役であることは間違いないのですが、中々に厳しい使い方をされています。そしてこの形態となったのにも勿論「意図」があるんです。

柊鰯の登場時期

江戸時代には存在を確認

基本的に文化、風習というのは江戸時代に大きく波及する事が多いです。これは上層階級と庶民の垣根が少なくなってきていた為でしょうか。

その江戸時代に残されている浮世絵や黄表紙にもその描写が登場しています。黄表紙とは、1775年以降(江戸時代中、期安永4年以降)に流行したとされる一種の絵本のような書物です。

更に過去に良く似た描写が登場

恐らく、この書物での登場が最も古いのではないかとされています。その書物とは、義務教育課程で必ず耳する書物、紀貫之が記した日記文学、「土佐日記」になります。

土佐日記とは、紀貫之が土佐国から京へ帰るまでの道のりを若干の作り話を交えて記した書物で成立は935年(承平5年)とされています。

鰯さん、かなり昔から頑張っていたんですね・・・いや、実はここで文化の歪みが発生しています。ここから起源へと触れていくこととなります。

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初代は鰯ではなかった。

古い書物で原型登場

先述の土佐日記で良く似た記述があった・・・よく似た記述があった。と書きました。つまり言い換えれば同じものではないという事です。では一体何が記されていたのかというと

「柊の枝と鯔(なよし、ボラの事です。)の頭を刺していた。」と記述されているんです。これ以上遡ることは難しく、果たしてこのボラの頭と柊の枝のタッグが節分の飾りであったかは定かではありません。

節分に関わる推測はできる

土佐日記に「柊鯔」の記述をしている項に「注連縄」(しりくべなわ、現代ではしめなわと言いますね)も同時に登場している為、恐らく旧正月の飾りとして使用している事は簡単に推察できます。

それがなぜ節分の飾りになったか・・・その経緯を深掘りして行きましょう。

ボラがイワシにバトンタッチした時期は

江戸時代の百科事典【古今要覧稿】の【時令】つまり当時の百科事典の行事に関する項で、遂に鰯が文面記録として登場しています。その書面とは、

「中むかしよりは鯔をいはしにかへ用ゐたりしは藤の為家郷の歌に、ひひらぎにいはしをよみ合せ給へるものによれば、是も六百年前よりの事なり、」

と明記されています。なんとなく意味は伝わると思いますが簡潔にお話しすると

「昔と違って今はボラの頭を鰯の頭に代えてるよ!詩で柊とイワシを詠んだ人もいるんだけどそれも600年前からあるよ!」という事です。

明治時代の百科辞典でも、節分の項目に「立春の節の前日なり 今宵門戸に鰯のかしらと柊の枝を挿て邪気を防ぐの表事とし」、と明確に鰯が使用されています。

完全に鰯が柊のパートナーの地位を確たるものとしたといっても過言ではないでしょう。(笑)

テーブルに置かれた柊鰯のアップ写真

ある書物に起源に近い記述が

「比古婆衣」という古い書物があるのですが、この書物はつまるところ日本文化・国語・国文関係を中心とする考証を集めた書物で1847年から明治にかけて20巻と続編9巻の計29巻が刊行されました。著者は伴信友です。

その比古婆衣に、鯔の口の中から失われた鈎が出てきたという故事が、土佐日記にも出てきた注連縄と鯔の頭を挿した柊の組み合わせの起源だと言及しています。

釣り糸の歴史。テグスの語源と由来を追いかける。

柊鰯の役割と由来

柊という植物の葉はとても鋭利で尖っています。この尖った部分が鬼に刺さり、鬼を追い払うとされています。また鬼は臭い香りが凄く苦手で、鰯という魚は独特の臭みが強い魚としても有名です。

この事から刺と臭いで鬼(邪気)を払う為に門戸に飾り付けた。

という事が一般的には言い伝えられてきています。ここで書いた内容だけですと納得のいく説明となりますが、比古婆衣の「口の中から鈎が出てきた」事が由来だと書かれた理由が気になります。

鈎と柊鰯、飾る時期からの推察

疑問が残る状態で締めることはできませんので、意図の糸的見解を記します。

まずなぜ、しめ縄と共に飾られていたのかということですが、これは旧暦の正月が年によって違いますが、大体1月末から2月頭にあった事が起因すると考えられますね。

そして、その旧正月が訪れる時期に節分、つまり節を分ける時が訪れます。旧暦では春を一年の始まりとしますので、立春前日の節分は一年の締めくくりであると言えます。

新しい一年を迎える時に、邪気を追い払いましょう、という意味で魔よけ効果のある物で作られた柊鰯を飾る、自然なことです。しかし「鈎」の存在が説明しきれません。

そこでふと思ったのが、日本は元々漁業民族です。米が伝わってくる前は漁業で生活をしていました。漁の際に必要となるのは「釣り鈎」です。その釣り鈎がなくなるという事は生活の基盤が脅かされるという事ですよね。

そんな時、鯔の口の中から無くなってしまった鈎が出てきた、つまり当時の人は「豊かに暮らす為の道具が返ってきた。非常に縁起がいい。」と考えたのではないでしょうか。

そういった事から、しめ縄を飾り、新しい年神様を迎え入れる際、縁起がいい故事を引き起こしてくれた鯔を飾りに添えて「招福」を祈ったのではないでしょうか。

なぜボラからイワシに。社会的現実が要因か。

鰯へとすり替わった理由としては、鯔の流通性ではないかと考えます。流通量を考えると鯔より明らかに鰯の方が流通しやすく、入手難易度は低いものとなります。しかし失った鈎を返してくれた魚とは違いますので、

本来の起源であった「招福」的な意味は薄れて昨今にいい伝わる臭いによる魔よけが生き残ったのかもしれません。しかし・・・このような起源を遡ると・・・

「豆を投げずに柊鰯を投げつけたら最強なんじゃないか」とか思ってしまいます。(笑)

タイムマシーンというものがあるとしたら実際にこの目で確認に行きたいものです。色々な資料、文献から伝承の意図を繋いで、その着地点と実際が一致したとしたらどれほど嬉しいでしょうか。

またやはり、起源や由来を知るという行為は、昔の人と感覚の共有ができ、時代を超えた旅ができているような気分になります。まさに知識のタイムマシーンと言えるのではないでしょうか。

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